十一月九日(月)
九月一六日から描き始めた、お台場をバックにしたユキエの肖像画「真の女神はどっちだ」が、ついに完成した。一刻も早く、ユキエに見せてあげたい。勿論、出来は、上々である。 「もしもし、ユキエ。完成したよーん。」 「本当〜!スゴーイ!綺麗に描いてくれた?」 「まっ、それは、見てからのお楽しみ。今日、陶芸教室、何時に終わるの?それじゃ、5時半頃、俺んちに来てくれない?うん、じゃあね。」 五十五日間を費やして、やっと完成したユキエの肖像画。思えば、これが、ヒロキとユキエを結ぶことになった最初にして、最大のキッカケであった。芸は、身を助けるというが、ヒロキにとっては、芸が恋を結んだ。 ユキエが到着する前に、肖像画お披露目の演出を考えた。ただ、普通に見せるのは、物足りない。では、ソファの上に反対向きに立て掛けて置いて、ユキエ自身に表を開かせてあげよう。 午後五時二十分頃、ユキエがやって来た。 「御邪魔しまーす。」 「どうぞ、居間の方にお上がりください。」 ユキエを居間に迎え入れると、目の前のソファには、裏返された額があった。 「ひょっとして、これ?」 「うん、そうだよ。ユキエ、裏返してごらん。」 「私がやっていいの?」 「呼ばれて、飛び出て、じゃじゃじゃじゃ〜ん!」ヒロキの掛け声と共に、ついに、肖像画が、ユキエの前に明かされた。 「うわ〜、すごーい!」ユキエの第一声だった。安心した。これまでの苦労がやっと、実を結んだのだ。否、 「ちょっと、ヒロキ!ここんとこ、色付いていないよ!」 「えっ、マジ?どこ?」 「ほら、ここ!」 「え〜、こんな細かいところ、どうせ、見えないよ。」 「だ〜め!私、こういうの逆に、すごく気になるもの。」 「分ったよ。じゃ、手直しするから、ちょっと待ってて。」額から、絵を取り出し、空いた箇所を塗りつぶしていると、「あっ、ここも、塗って。あと、ここんとこも。」細かいユキエの指導が続く。そして、全ての注文を請け負え、いよいよ、五十五日間の集大成『真の女神はどっちだ』が完成した。 「終〜了〜。」 「お疲れ様でした。ヒロキ画博。」 急に全身の力が抜け、その場に崩れた。 「頑張ったね、ヒロキ。でも、この空、この間のラッセンの絵に似ていない?」 「あっ、分る?夕暮れ時の空の構図が欲しくてさ、ラッセンのポスター見ながら、描いたところなんだ。よく、分ったね。」 「でも、本当、ありがとう。ヒロキ。」ユキエは、へたれたヒロキの両の手を軽く持ち上げた。ユキエの小さい掌から、ぬくもりが伝わってきた。それが、お互いを引き寄せるように、離すことが出来なかった。しばらく、沈黙が続いたが、 「どうしたの?ヒロキ。」 「えっ、いや。ユキエがいきなり、腕引っ張るから、どうしたのかなと。」 「そう・・・・。」 慌てて、ユキエが手を離す。そのまま、手を後ろに廻すと、さっと、隣に腰を落とした。 時計の秒針の音が、やけに大きく響き渡る。日もすっかり暗み、この空間に二人閉ざされたまま、何もする事ができなかった。あのジムでの出会いから、蓄積されてきたユキエへの想い、今こそ、形にしたい。今のユキエの表情から見て、もしかしたら、同じ気持ちなのかもしれない。これまで、ずっと、ユキエと楽しいときを過ごしてきたことが、スライドする。笑った顔、怒った顔、真剣な顔、様々なユキエが駆け巡る。何よりも大好きなユキエ。 ようやく、指を動かすことができた。それは、間違いなくユキエを欲している。ゆっくり、ゆっくりと。俺の左腕が、ついに、ユキエの右腕をがっしりと掴んだ。突然の出来事に、ユキエの身体が、ピクンと反応した。でも、その表情は、驚き一つ見せなかった。 「ユキエ、いい・・・かな?」 ユキエは、一つ小さく頷き、スッと目を閉じた。このときを予め予測していたかのように。ユキエの腕が震えている。いや、これは、自分の震えだろうか。この一瞬、永遠に胸に刻み込んでおきたい。これから、二人は、完璧になるんだ。 腕を掴んでいたはずのヒロキの腕は、いつの間にか肩に掛っており、わずかにユキエの身体を我が方に引き寄せた。まるで、今、彼女の全てを支配しているように思えた。感情さえも。 キスは、二人で刻む愛の刻印。そっと触れ合うだけでも良かったのかもしれない。しかし、ヒロキは、彼女の奥深くまで刻印を残した。彼女も同様だった。ヒロキにとっては、初めてのキス。しかし、誰に教わったわけではなく、ただただ、ひたすらに彼女を感じていたい、その一心だった。 どれほどの時間が経ったのだろう。最初は、ソファに寄り掛かっていたはずなのに、いつの間にか、フローリングの上に倒れこんでいた。体感できる限り、随分長い時間、5分だろうか、10分だろうか、ようやく二人に間が開いた。 ヒロキの目は、既にユキエを捕らえていたが、ユキエは、ずっと、目を閉じたまま。その時の彼女の気持ちを読むことができなかったが、しばらくしてユキエは、その目をそっと、開いた。ヒロキを確認すると、安心したのか、静かに微笑んだ。
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