Section13 ハ・ツ・タ・イ・ケ・ン



九八年十一月二十日(金)

 ヒロキにとって、いや、恋人同士にとって大きな大きな節目となる時が、ついにやってきた。
「私、そろそろ帰るね。」午後、十一時。時計を見上げたユキエがバッグを取り、帰ろうとした。また、部屋で話し込んでしまっていた二人に、別れの時間がやって来た。もう、行ってしまうのか、ユキエ。楽しい時間は、あっと言う間に過ぎてしまう。
「ユキエ!」高ぶる気持ちを抑えられず、ユキエの腕を掴み、胸元に抱き寄せる。
「駄目。ヒロキ。私、心の準備が出来てしまうと、もう、その気にならないの。」
 ところが、ヒロキに着火した炎は、既に、消火不能。すぐ隣の部屋に、ユキエを抱き抱え、ベッドの上に倒れ込む。
「ヒロキ、今日は、もう、本当におしまい。私、帰らなきゃ。」慌てて、抵抗するユキエに対し、ヒロキは、ますます、サディスティックに攻撃したくなる。彼女に被さり、淡くキスする。やがて、ユキエも、自分の腕をヒロキの首に回してきた。どうやら、ヒロキの本気振りに触発されたようである。あるいは、彼女もこの時を、待っていたのだろうか。
「ねっ、ヒロキ。ヒロキの部屋、行こう。」
「えっ、そ、そうだね。」
「ヒロキ、その前にシャワー浴びない?」
「一緒に?」
「そうよ、いや?」
「ううん。」
さっきまで、頑なに拒んでいたユキエが、これほどに急変したのは不思議だ。やはり、女性から誘うのは抵抗があったのだろうか。多少、強硬手段に思えたヒロキの行動が、お互いの本能を呼び起こした。
「今、お湯入れるから、ちょっと待ってて。」昨晩入れた湯なので、普段ならガスで温め直せば済むところだが、場合が場合だ。清廉潔白な湯で、清廉潔白な体とお別れだ。約10分後。
「ユキエ、風呂の準備いいよ。」
「じゃ、入りましょ。」そう言うなり、ユキエは、衣服を脱ぎ始めた。
「ヒロキ、少し、ここで待ってて。私、先に入って体流すから、いいよ、って言うまで入らないで。」
「うん、分った。」たった今、曇りガラスの向こうには、夢にまで見た裸のユキエが、いる。想像しただけで、なぜか、足がぐらぐら震える。ふと、洗面所に映り込んだ無力な男を見つめて、一言、呟く。
「意気地なしめ。」
湯煙と共に、ユキエがドアーから顔を覗かせた。
「ヒ・ロ・キ。いいよ、入って。」あのジムで一目惚れしてから、この瞬間までは、随分長い道のりのようにも思えた。でも、今、この瞬間、そんなことは忘れてしまった。ユキエの言われるまま、カテナティオを開ける。
「ヒロキ、恥ずかしいよ。そんなに見ないで。」
「ユキエ、すごく綺麗だ。」
「本当に。嬉しい。ね、ヒロキ。背中流してくれない?」
「あ、ああ。」すべすべの肌。背中から腰にかけての見事なまでの曲線。ヒロキは、完全にユキエの虜になった。
「いいよ、ヒロキ。ありがとう。今度は、私がヒロキの背中、洗ったげる。」
「あ、ああ。」
 ようやく、体と頭を洗い終えると、湯船に入る。だが、ユニットバスに二人は窮屈で、湯船からおびただしい量の湯が溢れ出した。
「キャ、やっぱり2人で入ると狭いわね。」
「確かに。お湯、初めから半分くらいでよかったね。見て、下。プールみたい。」
「本当。エイ!」ユキエが顔に湯を浴びせる。
「やったな。」負けじと反撃する。
「もう、止めてよ。ヒロキ。」
「そんなこと言ったって、ユキエが最初にやったんだから。」
「そうでちゅね、ヒロキクン。」
「からかうなよ、ユキエ。」
「フフフ。かわいい。」束の間の、バスタイムが終わった。
「ユキエ、着替えとかないんだよね。」
「そうなの。下着はあるから、ヒロキの服貸してくれない?」
「いいよ。ここに置いておくからね。」
「ありがと。」衣装タンスから、部屋着用のジャージとトレーナーを持ってきて、洗面所の前に置き、ユキエが風呂から上がるのを部屋で待つ。その間も、さっきのユキエの姿が頭から離れない。考えまいとすればするほど、それは、鮮明に浮かび上がってくる。「おまたせ。」湯上りのユキエは、得も言えぬ美しさだ。それに、大き目のトレーナーが、セクシーなそのスタイルにアクセントを付けていた。
「ユキエ、俺の部屋、来る?」
「うん。」
 ついに、訪れたヒロキの人生初の体験。高鳴る鼓動は、ずっと鳴りっ放しだ。一時期は、女性に全く興味を示すことがなく、おかしいんじゃないか、と謳われていたヒロキには、全く唐突な出来事である。右も左も判らないヒロキを悟ったのか、
「私が教えてあげるわ。ヒロキ。リラックスして。」そう言うなり、二人は生まれたままの姿になり、激しく抱き合った。ずっと、探していた宝物を、やっと、手に入れた。ヒロキは、そんな気がした。


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