十一月二十三日(月)
そろそろ、紅葉の美しい季節になった。例のように、東京ウォーカーをめくると、「恋人と泊まる温泉宿」特集があった。ユキエと、綺麗な紅葉鑑賞と身体休まる温泉に出かけよう。 「もしもし、ユキエ。明日の紅葉鑑賞の件だけれど、場所は、本厚木に決めたんだ。それで、近くに温泉とかあるから、一応、着替えとかも用意してきて。それじゃね、下北沢の下りのホームに九時半待ち合わせでいいかな。うん、じゃ、また、明日。」 月曜日は、大学の講義はなく、今期は、必然的に週休3日であった。勿論、勉強するために大学に入学したわけであるが、大学という機関が、単に勉強するところだけではないことは明らかだ。余りある時間を如何に有効に活用するか、それは、人それぞれである。バイトをするも良し、課外活動に没頭するも良し、趣味に嵩じるのも良いだろう。ある映画の就職も面接にこんなやり取りがある。 大学は大学だ。社会では通用しない。高校出て社会に出た方がましだ。 大学は何の役に? 楽しんだろ? ユキエも、月曜日は、非番だったため、二人の作る時間が圧倒的に増えたのは、この上なく嬉しかった。 翌日、明大前から京王井の頭線で下北沢まで行く。ほぼ、時間通りだ。通勤時間も過ぎているということもあり、幸いにも混みあっておらず、ホームを走って、指定の場所へと急ぐ。ホームの突き当たり付近には、線路の方を向いて、バッグを抱えている女性が一人。ユキエであった。慌てて、駆け寄ると、 「ごめんね、待った。」 「あっ、ヒロキ。おはよ。今朝、すごく早く起きちゃったから、準備して来ちゃった。もうすぐ、準急来るから、それに乗って行きましょ。」 「そうだね。」新宿から渋谷界隈が活動拠点のヒロキにとって、ここまで来るのは初めてである。 約1時間弱、目的地、本厚木に到着した。 「やっぱ、空気が違うねえ。」 「ヒロキ、早く。バス探そう。」 「うん、地図だと向こうなんだけれど。」 「あっ、見て、ヒロキ!ピカチューのバスがある。あれじゃない?」慌ててバスに駆け寄る。まさにドアーが閉まらんとしていた。 「待って。あ〜、行っちゃった。都内のバスはね、前に入り口があるから、運転手さんに呼び止めることが出来るんだけれど、こっちは、中央にあるから、不便なのよね。」 ユキエの機嫌を損ねてしまった。ピカチューバスに、よほど、乗りたかったのだろう。楽しいデートに水を射す形になってしまった。 「仕様がないから、次のバスが来るまでその辺のゲーセンで時間潰して行こうぜ。」ヒロキは、何とかご機嫌を直してもらおうと必死だ。 「そうね、そうしましょ。」ユキエに笑顔が戻る。とは言え、ここは、ヒロキには、あまり馴染みの薄い空間であった。高校生まで規則に忠実、生真面目な一生徒だったため、いざ、こういう機会に遭遇すると、まるで勝手が解らない。どうしよう、何を、どうすればいいんだ。 「ヒロキ、これ、やろう。」 ユキエが、指したのは、バイクのレーシングマシーン。 「いいよ。どっちが先にゴールするか、競争だね。」 とは言え、ユキエは、ほんまもんのライダー。ヒロキはアクセルの架け方さえ知らないド素人。結果は、火を見るより明らかだった。こんなことなら、高校時代に、もっと遊んでいれば良かった。 約30分後、ピカチューとは違うバスで、温泉郷に向かった。「ピカチュー、乗りたかったなあ。」ユキエは、先程の一件を思い出し、愚痴をこぼした。 「もう、いいじゃん。ほら、紅葉が綺麗だよ。ユキエ。」「本当。綺麗ね。」 「え〜、次は、美登利温泉前。御下りの方は、お知らせください。」 「おっ、着くぜ。ユキエ。降りよう。」二人だけ降車すると、そこは、人通りのない閑散とした所であった。 「ヒロキ。本当にここでいいの?」ユキエが不安気に尋ねるので、バッグから東京ウォーカーを取り出し、もう一度、位置の確認をする。 「うん、いいよ。後は、徒歩一五分だって。紅葉見ながら歩いて行こうぜ。」 「そうね。ヒロキ、見て。この落ち葉、いい感じじゃない。私、陶芸に使ってみよう。」 「へ〜、陶芸に使えるんだ。だったら、袋に綺麗な葉、集めようぜ。」青、赤、黄、色とりどりの落ち葉拾い。葉の形も、一枚一枚に個性があり、面白い。「そろそろ、出発するか。」「そうね、これだけあれば十分だわ。」 地図通りに歩いて行くと、ある看板を発見した。そこには、"美登利温泉まであと、1キロ"と書いてあった。 「あと、1キロもあんの。まさに、秘湯だな。」 「ヒロキ、お腹すいていない?」 「そうだな。どっかで、お昼にするか。」 手巻き寿司を駅前で買っておいた。しばらく行くと、どこかしら、小川のせせらぎが聞こえてきた。 「ユキエ、近くに川があるみたいだよ。行ってみよう。」 「うん。」その方向には、もうもうと煙が上がっていた。 「あれ、なんだろう?温泉の湯気にしちゃ、真っ黒だし、焚き火でもしてんのかな?」 「さあ〜、とにかく、行ってみましょ。」 見ると、伐採した草木をおじさんが、焼却しているようだ。道路の上から、その様子を眺めていると、丁度、川原に降りるルートがあった。 「すみませーん、川原に降りたいんですけれど、ここから降りていいですかー?」 ヒロキは、おじさんに向かって、大声で聞いてみた。 「気を付けな。ちゃんと、彼女の手を引いてやれよ、ニイチャン!がっはっはっは。」 "彼女"と客観的に言われるのは初めてだが、言い知れぬ感動があった。 「はーい、ありがとうございまーす!」 かくして、川原に降りたヒロキとユキエは、早速、お昼ご飯を食べることにした。密林に囲まれ、小川のチョロチョロとした音だけが響き渡っていた。先のおじさん達からも死角となる静かな川原だ。 「静かで、いいところだね。」 「そうねえ、ヒロキ、見て。この川、鯉がいるよ。」 「あっ、本当だ。放流してんのかな。」 全てが、二人だけの世界と思われるこの空間で、二人は、また、淡いキスを交わした。再び、道路に上がり、温泉目指して歩いていくと、再び、看板を発見。だが、そこには、『猪にエサをあげないでください』 「ヒロキ、猪がいるんだって。見に行きましょ。」 「おう。行ってみよう。」 看板脇、10メートルほどに確かに猪が3頭いた。排泄物だらけの檻に閉じ込められていた。 「なんだか、かわいそう。」ユキエが泣きそうな声を上げる。でも、どうにもフォローしてあげることができなかった。 さらに、二十分ほど歩いただろうか、ついに、美登利温泉の看板を発見した。 「ユキエ、見て!着いたよ。」 「あっ、本当だ。私、早く、温泉入りた〜い。」 「俺も。すごく汗かいたしネ。ユキエ、こっちから行けるよ。」 ユキエの手を引いて、竹で囲まれた柵の中に入る。 「ユキエ、まだ、誰もいないよ。入ろう。」 「なんだか、ドキドキするね、ヒロキ。」 ユキエと二人きりで入る露天風呂。苦労して辿り着いた分、疲れと共に、安堵感が湧き出てきた。 「ああ〜、極楽極楽。」 「気持ちいいねえ、ヒロキ。」 「ああ、本当。最高。」 ふと、横を向くと、眩いばかりの彼女の姿がある。本当に最高なのは、温泉よりもむしろ、ユキエの方だよ。うっかりしていると、紅葉の中に溶け込んでいってしまいそうで、恐かった。ヒロキは、たまらずユキエを抱き寄せた。今、この二人を邪魔するものは何もなかった。何も。
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